蘇れJJおじさん

 植草甚一さんは49歳になって突然ジャズにのめりこみ、持っていた貯金、1957年頃の70万てどれ位の価値があるのだろう、を全ておろしてレコードを買い込んだのだそうだ。凄い思い切りの良さと思い込みの激しさを持った人だと思うが、彼の文章は平易でわかりやすく、培ったウンチクをひけらかすこともない。開放的でもあり実に親しみ易いエッセイストである。
 海外の雑誌や新刊本に出たJAZZの面白いストーリーを噛み砕いて紹介してくれるのだが、彼の文章を読んでいると僕がその物語の現場に居合わせているような気分になってくる。まるで映画を観ているかのように、物語の舞台やJAZZ menの息遣いが本当に視覚的に浮かび上がってくるのだ。JAZZが持つきらめくばかりの活気やイカガワしさ、あるいはその芸術性や彼らが活躍した時代背景とその哀しさ・・・。
 植草さんは無邪気なまでに素直に感動を語るのだが、彼の語り口に引き込まれていくと、たとえその曲を聴いたことがなくても、頭の中で曲のイメージが出来上がってしまう。20年ぶりに彼のジャズエッセイを読んで、また、10代に戻ったような新鮮な感動を得て興奮しているのである。
 さて、僕が突然植草さんを読み返すことになったのには、実は深い訳があるのだ。
 僕はある時期まで渓流釣りに深くのめり込んでいたので、今でも年を越すと馬瀬や郡上近辺の河川が頭に浮かび上がってきて落ち着きを失ってしまう。冷たい風が吹けば本当に突き刺さるような、凍えるような冷たい風が吹く夜明け前の2月の渓流を思い出し、雪が降れば首を窄めるようにして小渕に竿を振り続けた自分のことを思い起こす。小さな気候の変化が全て渓流の思い出に繋がってしまうのだ。
 でも残念ながら妻子を置いて釣行に出る根性が、今の小心小市民の僕にはない。再び渓流にまで趣味を広げたら自己破産してしまう!
 せめてもの慰めにと手に取ったのが、渓流を楽しむものにとっては一種のバイプルと呼び得る、井伏鱒二の「川釣り」だ。彼の語り口の面白さとそのシニカルな笑いのセンス。ついついページが進んでしまうではないか。若い頃に印象に残った本を読み返すのも悪くはないな、その文章の持つ魅力と、それに触れた当時の自分の思い出とを同時に楽しむことができるのだ。忘れられたように本棚の奥や押入れの隅に哀しく追いやられた、しかし、思い出がたくさん詰まった物語に時代を超えて向かい合うのも悪くはない。
 そんな流れの中で手に取ったのがJAZZエッセイだったのだ。天国で植草さんが口ひげを伸ばしながら「おいおい、もっと新しい刺激をライブで追っかけなきゃダメだよ、死んだ人間のエッセイ読んでも何の意味もないだろう・・・といって、苦笑いしているような気がするが、彼のようの視覚にまで働きかけてくる文章に出会える機会はそうめったにあるものではないのである。