風の歌は聞けたのか?

 村上春樹の小説に出てくるような人物がそばにいたとしても、僕などとは決して交わることはなく、全く違う世界を生きていくのではないか。大人びて分かった風な醒めた会話。感情を表に出さない、ちょっと知的でどこかシニカルな言葉は、僕の感情を逆なでしイラだたせるに違いない。 
 そんな印象が残っていたので、彼の小説が鼠の怒鳴り声とともに始まるという事実は意外な感じがした。
 「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」
 あえて明らかにしたのだろう1970年という時代とあわせ、これは村上春樹の小説を語る上で重大なキーワードになるのかもしれない。少なくとも鼠はその時代がゆえに、自ら背負った出自に強烈なコンプレックスを感じ、おそらくその渦に翻弄されていたのではないか。
 しかし、彼の小説から政治的な関わりはバッサリと切り取られている。
 宇宙の複雑さに比べれば、この我々の世界などミミズの脳みそのようなものだ。自分の存在、あるいは社会をそのように定義付けしてしまえば、たいていの出来事は耳糞のようなものに過ぎず、ただ耳糞もけっして侮ってはいけないのだが、そんな些細な出来事にいちいち声を荒げる必要性もないし、感情的になるのはただ虚しいだけだと思ったとしても、それはそれで筋の通った考えだということが出来る。
 あるいは、彼の小説からは体臭が感じられない、ということもいえるかもしれない。主人公が汗をかくシーンが殆んど浮かんでこないのである。あるいは、泣き叫んだりする場面も思い出せないし、セックスという文字こそ頻繁にでてくるが、具体的な営みを想像させることは殆んどない。
 政治だけではない、少なくとも、僕の20代を強烈に支配していたものが、もちろん性欲も含め、きっぱりと切り離されているような気がするのである。
 初期村上春樹のそんな社会との距離感と、少し理解はできるが非現実的に女性との付き合い方に、ちょっぴり哲学的なように感じられる言葉遊びもあって、あの無気力な80年代には憧れも持って迎えられたのかもしれない。
 いや、それだけではない。ストーリだけみたら、何の変哲もない、大学生にはありがちな日常の一場面が切り取られているにすぎない、この小説が圧倒的な共感を得たのは、内側に抱えているであろう苦悩や叫びが、時に垣間見れ、しかし、ぐっと我慢して隠し通す、そんな鼠の存在によるところが大きいのではないか。
 「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りの出来る人間が居るだけさ。」鼠は自分でそういっておきながら、しばらく黙り込んで、ビールグラスを眺め、真顔でこういう。
 「嘘だといってくれないか」
 僅かに出てくる、こんな感情の乱れに僕は何かを感じたのだが・・・