ノルウェーの森

 ピンボールを不自然な作品だと思ったのは僕だけではあるまい。
 学生時代に愛し合った女性が自殺してしまったというのに、彼女や彼女と作った思い出には殆んど触れていないのである。ただ、死から四年後に彼女が育った町を訪ねる。彼女を育んだ環境や時代に思いをめぐらせ、そして過去との決別を図ろうとするのだけである。もちろん彼女の名は直子。
 そんな村上春樹のいわゆる青春3部作にポッカリとあいた空白をこれでもかというくらいに埋めたのが、社会現象にまでなったノルウェーの森である。
 しかし、当時の僕はこの作品を素直に受け入れることが出来なかった。
 一つは何人もの登場人物が自ら命を立ってしまうこと。人を殺しながら展開していく小説はあまり好きではない。
 それよりも何よりも主人公であるワタナベ君を生理的に受付けられないことである。彼は入寮するとそこでのルームメートをダシにして集団に入り込もうとし、話がエスカレートしてくると、もはや僕の手には負えない、などといって責任を都合よく転嫁していく。周り人間や社会を軽蔑する態度までは許容しても、権限者の傘の元で無責任な手地振る舞いに終始する姿には虫唾が走る。
 どういう形であれ主人公に共鳴できなければその小説を読み続けるのは非常に難しいと思うのだが、その意味ではこの小説は僕の範疇ではないはずだが、それでも僕がこの小説に惹かれたのはナゼだろう。
 性的描写が多いせいか?確かに直接的な表現が多いが決して性的興奮を刺激するようなものではない。
 主人公の価値観、あらゆる物事を深刻に考えないようにすること、あらゆる物事と自分との間にしかるべき距離を置くこと、に惹かれたのか。僕は大学時代に割と濃厚な人間付き合いをしてきたし、そのことを変だったとは思わない。
 時間がないので、遠まわしな表現はやめよう。
 僕は直子のPUREな精神に打たれ震えたのである。
 言葉だけが全く違う方向に向かって進みだし、軌道を修正しようとするほどに思いと言葉との乖離が激しくなってしまうようなそんな状態に置かれたらどうなってしまうのだろう。思うを正確に表現しようとするほどに相手を傷つけ、自分をズタズタに傷つけてて行くのである。
 それでも自分を自分として保つために正確に言葉を繋げ伝えようとする儚くも健気な姿にどうしようもなく感じてしまうのである。一緒に暮らそうなどという無責任な気休めをもらっても、どうしようもない現実があることははっきりと分かっている。何に希望を持って生きていけばいいのか。
 僕と直子ないしはレイコさんとの間で交わされた何通かの手紙はとてつもなく純粋で美しい。しかし永続性を感じることは出来ない。崩壊していくものを保とうとしてもどこかに無理があるのだ。
 直子を自殺させることには不満が残る。では、どんな展開ならよいのか。
 縁に惹かれる自分に正直に感じ、仁義を通してから付き合い始めるワタナベ君。卑怯者呼ばわりするのは簡単だが、彼は彼の責任として直子を一生引きずらなきゃいけないのか。ビートルズの曲を片っ端から弾いてからレイコさんとアレをしたからこそ、縁を選んだからこそ、この小説に価値があるのではないか。いや、分からない。
 いくつからの断片からではなく全体から感銘を受けているのか、まだ僕には判別がつかない。20年近い!空白を隔ててこの作品を読み直してみたのだが、正直言って僕は混乱している。深い感動と拒絶心の間で揺れているのである。

 さて今日は習志野の50mプールで100m x 16本=1,600m。
 オマケとして幕張の打ちっ放しで50球。
 これを書きながらツェッペリンの狂熱のライブを流しているのだが、ちょうど天国への階段が流れている。