マイケルジャクソン

 あの肢体が今でも目に焼きついているファラフォーセットメジャースが亡くなったと知り落ち込んでいるところに、マイケルジャクソンの話が飛び込んできた。こんな日に暇ネタ飛ばすなんてフザケやがって、と一人で怒っていたら本当だったのですね。
 マイケルがマトモな死に方をする訳ないとは思っていたが、僕が生きてきた時代がポツンと終わってしまったようで力が入らない。
 昨晩からマイケルのDVDを流し続けているのだが、きっと世界中で何百万人もの人が同じようにスリラーやビートイットの映像を見ながら泣いているのだろう。
 そういえば、ジョンレノンが死んだ時にもStarting overを聞きながら、ボンヤリと同じようなことを考えたことを思い出した。マイケルとジョンとではどちらが音楽的才能が優れているかなんて、野暮な話をするつもりはないが、ふたりとも神に選ばれた特別な人間で、神に召され本来要るべき場所に帰っていったのだなんてことを、イマジンの思想が好きなのに、思ってしまう。
 あまりに売れすぎたので悪口の一つも言いたくなるが、なんだかんだ言ってもスリラーは奇跡的なアルバムで、これまでに何百回となく聴いているのに飽きる事がない。
 このアルバムが発表されたのは82年で僕が大学生のときだ。前にも書いたことがあるが、昼休みになると何組もの集団がスリラーをラジカセで流して踊っていたことを思い出す。当時は明るい雰囲気が売りで朝まで営業しているカフェバーなるものが流行っていたのだが、店の目立つ場所に置かれたテレビで流されているのは絶対にMTVで、当然の如くスリラーがガンガンかけられていたものだ。
 ラジオスターの悲劇という名曲が時代の変革を高らかに宣言したように、専ら聴くものだった音楽が五感全てで感じるものに変わり、その変革の象徴がスリラーだったのだ、ということもできるだろう。
 そういえばマイケル来日狂想曲が起きたとき、チケット発売のための整理券がxx時からxxで配られるという情報を入手し、首尾よく一ケタ台の整理券を入手したのはよかったが、それで安心してしまい肝心のチケットを買いそびれたという人生最大級の失敗を犯したことも昨日のことのように思い出す。スリラーの時代は僕の青春とモロに重なるので、彼の曲を聴いていると色々なことを思い出す。急性アル中で救急車を呼ばれたこともあったなぁ。
 こんなことをダラダラと書いていると、一日がそのまま過ぎてしまいそうで怖いので、そろそろ電源を落とすことにするが、この空虚感を何と表現したらいいのだろう。ただ、この空しさは彼の死だけから来ているのではない、彼の死とともに、ある時代の終焉を感じているのだ、と僕は思うのである。合掌。